昭和41年10月7日  朝の御理解



  世の中の全ての事、世の中の全ての人、その人やら、全ての事やらが、皆私一人のために、あるのだと、確かにそれを、思う、それをもう少し、分かりやすく言うと、子供達も、家内も、親も、皆さんも、私一人、大坪総一郎一人のために、あるのだと。
  もっとそれを分かりやすく言うと、自分の、そうした関わり合いと言うか、そういう関係において、身近に感じる、事、それは、苦を感ずることもあれば、楽を感ずることもある、それをもう少し真実めで言うと、なら私の子供なら、私の子供ということ、一人の子供が、非常に親思いで、孝行してくれる、一人の子供は、そうでもない、まあ言うなら親に心配をかける、ね、けれどもやっぱり、私一人のためにその二人なら二人の子供があるのだということです。
  私、ならほら、私とならご信者さんという関わりにおいて(?)、時には親先生親先生、親先生本意で、まあぁ、私ぃ、私のお~、喜ぶようなと言うか、私の楽になるようなことのために、奉仕される、一人の信者は、もうただ難儀な事をお願いするばぁ~っかり、いつも先生に心配のかけどおし、というような、まっご信者さんがあるとします、しかしそのどちらをとっても同じだと、どちらも私大坪総一郎一人のためにあるのだということね。
  「信心は悟りだ」ということが言われておりますが、私はそれだと、そういう風に、もう真実なことが分からしてもらう時です、どれでも、大事にしなけれおられないのである、自分の都合の良い時のためにある、信者やら、子供やらを、なら私が大事にして、私のためには、不都合であったり、私のためであったり、不孝であったりする子供のことを、おろそかにするというようなことは出来ません、私一人のためにあるのですから、ね、しかもその私一人のために、私がいよいよおかげ頂くことのために、あるのですから、ね、片手落ちなこと出来ないでしょうが、全部大事にしなければならいです、それは家内でも親でも、いわゆる、私の、私を中心としてです、もう全ての人、全ての事柄、それには、大きく言ってまいりますと、世の中の事、の全ての事柄でもです、私共の関わり合いがあるのだということ、ですから、その事は無関心でわけないのであり、そのことは、やはり、まあ、関心に絶えない、いわゆる心が寒うなるような、思いをするような事柄も、または心が嬉しゅうなるような事柄も、全てのことが私一人のためにあるのだ。
  まあ、親鸞昇任さんがそういう風に、その悟られておるですね、の言葉の中にあります、「この親鸞一人のために世の中の全ての事があるのだ」というようなことがです、私も、やはり、それを感ずる、ですから、これは私だけの専売特許でもなからなければ、親鸞昇任様だけのものじゃないということ、皆に一人一人のために、ね。
  昨日、まあ具体的に言うと、もっと、詳~しく頂いておられたっですけど、やはりややこしなるから、まあ申しますと、そのツツミキヨシさんが昨日頂いておられるのもそうである、「大坪総一郎、その人も、ツツミキヨシのためにあるのだ」ということを頂いておられる、ね、「私のためにツツミキヨシもある」と私は思うておるのに、「ツツミキヨシのために大坪総一郎があるのだ」と、ね、ですから、問題はです、ね、そうした神様の働きというものを、ね、私一人のために、全ての人があるのだと、そういう大変な事柄でございますから、その中心であるなら私がです、小ぃさい事のために、奉仕するよりも、大きな事のために、奉仕する、そこにその人の値打ちというものが、定まる時なのだということを、頂いておられます、「キヨシさんだからせっかく、せっかくそれだけの働きを頂いておるのであるから、その働きを受けておるあなたがです、うんならツツミ商店だけのためのツツミキヨシではなくてです、ね、もっと、それは、実感のない、伴なうものではっ、仕方がないですから、ね、北野町のために、と言うか、でなかったら、椛目の御広前を中心に、言わば、ためのツツミキヨシであらなければならない、そこにツツミキヨシの値打ちが決まるのだ」というようなことを申したんですけれども、ね。
  私一人のために全てがこうあると、それを、具体的に一番分かりやすく言うと、私一人のために私の子供達があるのだと、それは、私をただ、私を楽させるだけのためにじゃなくて、私をいよいよ高度な私に、いよいよ磨いてやろうとなさる働きがです、ね、なら親孝行してくれる子供もおりゃぁ、親に心配かける子供もあるということ、そのしかしどちらもが、だから、そのそういう関わり合いにおいて、でございますから、大事にしなければならないということ、そこが分かる時に初めてそれが大事にされる、ね、親不孝する子供がおるとしますと、この親不孝の子供のために、私が一段と信心を進めて行くことが出来る、また信心を進めさして下さるために、そうなのであるということ、子供じゃない、私のためなのだ、ね、そこんところを、私は本当にこの、分かると言うよりも、悟らしてもらった時です、自分の周囲の全ての事をです、いわゆる成り行きをいよいよ大事にしなければおられないということになるです、おかげを頂きゃっ、頂くために成り行きを大事にするのではなくてです、そうのことが分かるっ、分かるって言う、そのことをそう悟らしてもらう時にです、その事を大事にしなければおられんのです、ね、そこで、そういう事によって、私が、高められ、私が、おかげを頂いていく、そのなら私自身もです、ね、(    ?    )のその私がです、小さい、んなら、椛目のご信者さんなら椛目のご信者さんだけの家の、私ではなくてです、もっともっと、なら、ね、全っ、なら、教団のための私というような、働きに、高度なものに、もっと言うたら、世界真の平和の、ための、世界総人類の、総氏子の、総助かりのことのために、その大坪総一郎が、使われる、奉仕する、そこに私のなら値打ちというのが、定まってくるというわけなんです、ね。
  そこで、また分かりやすく言うたら、言うとですたい、ね、まあ具体的に言うともっと分かるんですけど、あの昨日、あることで、私の子供が、あるお願いに行っていたんです行ったんです、ところが、具体的に言わないと分からないですね、昨日あの、御本部参拝者が一人で行ったんです、それであの長女がお参りさして頂いた時にですね、親先生に「先生あの、お~、一人にいったんですけれども」ということを言うたら親先生が、あの一人減るという風に感じっ、気違いされたらしいですね、こちらが申し込んでおるというのに、一人参拝者が減るという風に、ま思われたらしいんです、ですから、そりゃ困ったといったような顔だけなさる、「いいんやあの、一人、もう一人参拝者がありますから、もう一人あの、お、あっそんなら良か」って言うて今度は、ニコニコと良い顔されたとこういう、例え今までであったら、であったら、これが反対でしたですね、一人でもいいったら、「その今頃言うてきたっちゃでけん」もうあんた出発間とですから本当言うたら、もうでけんとですよね、それこそ、お参りというたら、またそうやって揃うとらんならん、と言うて、まあ良い顔をなさらないに違いないけれど、今度の場合はそれと反対であった、一人でもお参りがあるということを、を良いというのであり、それをその勘違いしてから、一人減るという風に感じられたら、もう先生の顔色が変られたとこういう、「あのぉ、(?)でございます」「あっそんなら良か」っち言うてから、またニコニコとされたと、どういうところからですね、そういう事になってくるのかと、それを聞かせて頂いてから、子供達と話したことでした、ね、自分の都合の良い時には、多かがええ、自分の都合の悪い時には、もう、その多くなると困る、ね、結局自分というものが中心だからじゃなかろうかと私は思うです、ね、自分が中心である時にです、ね、自分ということだけが中心あります時にです、自分に都合の良か時にはニコッとし、都合が悪か時には、ブーッとせんならん、という事になるわけなんです、それは自分が中心だからです、ね、ですからその中心というのが、もっと(?)のところにおかれる、例えて言うならば、教祖の神様はそこんところを「此の方は人が助かりことさえ出来れば」というような、素晴らしいところに中心が、置いてあるから、どちらにしたら、なっても、言わばニコニコしたりブーッとしたりということがいらないっちいうことなんです、ね、そこで、私は今日皆さんに分かって頂きたい、なるほどここんところは、お互いのものにして行かなければならないということはです、世の中の全ての事、全ての人、ね、お互いめいめいのためにある、いわゆる、大坪総一郎一人のためにあるのだと分からしてもらう時にです、自分に都合の良い事悪い事どちらにしても大事にしなければおられんのだということ。
  ためには、お互いのです、願いというものが、もっと大きな、高度なところに、おかれなければならない、ただ自分さえ、自分の身さえ、というようなものではなくてです、ね、もっと私は高度な、そりゃめいめいの、その信心によって違うのですから、ね、その中心である、その願いというものを、もっと高度なところに、置いてまいりますと、自分というものを中心ではなくてです、ね、自分以外のもっともっと尊い、もっと有り難い、もっと神様が喜んで下さりそうな事のために、を、そのことを、中心にしなければならないということ、自分が中心でありますとです、ね、なでたりさすってりしてくれる子供だけが有り難くて、自分の言う事を聞かない子供は、もう有り難くなくなってくるということ、ね、高度な願いを立てなければ、願いを大きく持たなければ、そこんところが分からんのじゃなかろうかとこう思う。
  いわゆる自分中心ではなくてです、信心が中心、神様が御中心であるという生き方にならなければ、いけないということ、神様中心、ね、自分には都合の悪い事だけれども、この事を神様はどうお考えなんだろうかと、まず思うてみなければいけないということ、ね、自分中心であったら、自分のそんなりの事になったら、それがその、お~、悪口を言うごとあったり、それをおろそかにしたりするのです、ね、信心が中心、神様が御中心である時にです、ね、どちらにしても有り難いということになってくる、いわるゆ、私一人のために、と言うのはです、そげなことじゃないかと思うです、ね。
  分かった、分かったのではいけん、ね、それが本当に、心の中に翻然として、悟らしてもらえる時です、ね、自分の周囲の一切の事が、大事にされるのじゃないでしょうかね。
  そして、いよいよ分からして頂くこと、なるほど私一人のために、世の中の全ての事があるんだな、私一人のために、沢山の人が使われておるんだなぁと、私がいよいよ真実の、生き方、本当の幸せにならせて、ならしてもらして頂くことのために、沢山の人が使われておったり、沢山の事柄というのがあるのだと、いうことに、もう本当にそう思えれるおかげが頂けれる、ね、そこに、私はもうまんこうからなるところの、神様に対する、神恩報謝というのは、そういうところが分かって行かなければ、本当の意味での神恩報謝の生活は出来んと私は思うですね。                                   どうぞ。